マクロビアン days

日々の活動や、お知らせ、食についての情報など、幅広く発信していきます。

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)

原発事故の罪深さ 

先日、七度目の帰宅をした。

これまでの帰宅は、一回、三日程度の期間限定。放射線量の高い自宅では、あまり長く滞在するといろいろな不快な症状が出てくる。頭が痛い、喉が腫れる感、胃の調子が悪くなる、皮膚が痒くなりジンマシンのような発疹が出てくる等々。その都度、三日以上は無理と言う気持ちになる帰宅なのだ。

帰宅の目的は、家の整備、掃除だが、震災以後、地震で倒れて割れた戸のガラスを始末することがずっと出来ないままで居た。庭にガラスの破片が散らばっているというのは、何とも殺伐とした気持ちにさせる。少しでも早く片付けたいと思っていたので、ようやくその始末が出来てほっとした。

いつも掃除が終ると、あたふたと家を飛び出すのだが、半年の時間の流れが、そんな中にも少しだけ周りを見回す余裕を持たせてくれた。気がつけば、季節はもう秋になっていた。草刈をしていない家の庭や畑には、雑草が伸び放題になっている。人が住む気配のない何とも寂しい我が家の風景だ。

畑の隅には、植えもしなかったカボチャがなっていた。自宅の庭の真ん中にある我が家のシンボルとも言える栗の木は例年になく豊作で、まん丸に太った栗がバラバラとあちこちに落ちている。放射能を浴びた作物は大きくなると聞いたが、そんなことがたしかにあるのかも知れないと思えるほど、いつになく立派な栗だ。

栗拾いは、我が家の季節の行事の一つだった。子どもたちが居た時には、栗を求めて一日がかりでかなりの高い山まで登ったものである。それぞれがリュックを持って、帰りには、そのリュックに一杯、小粒だが、抜群に美味しい山栗が山ほど採れた。その栗を、山の動物たちと同じに、おやつ代わりに一ヶ月もの間、ポリポリとみんなで楽しんだ。

そんな栗が、今年も庭の一面に落ちている。その様子を見た途端、バケツを片手に、もう一方の手には火ばさみを持って栗を拾う自分が居た。しかし、いつもなら、食べる楽しみでワクワクしながら拾う栗だが、今年は、いつものそれとは違っていた。

食べることの出来ない栗を拾う感覚は、割れたガラスを拾うのと同じだということに気付いた。捨てるために拾う栗は、もう収穫のそれではない。ゴミを拾うのと同じなのだ。拾っている栗が食べ物に見えなくなっている、そんな自分の感覚に戸惑う。

放射能の拡散、汚染で、どれほど多くの食にかかわる人たちが、こんな寂しい、哀しい、無常な収穫を味わったことだろう。食べ物を栽培、収穫すると言うのは、ただの儲け仕事ではない。人のいのちとなるための食を育て、収穫すると言う大きないのちの喜びを感じさせてくれる行為なのだ。

栗を拾いながら、心の中にふっとこんな句が浮かび上がった。「イノシシも、リスも食べない、今年の栗」原発事故は、こんなに寂しい句を作らせるほどに罪深い。宙八
投稿者 macrobian 時刻: 10:33

スポンサーサイト

[ 2011/10/21 11:57 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)
コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。